|home  |top  |勘助は何処で生れたか・・?|勘助と先照寺
|勘助の郷散策  |勘助ってどんな人・・  |勘助記念切手


          勘助観光・・歩け歩け
■2007年2月4日(日)富士宮市観光課発行のマップを片手に富士市の鷹岡地区から勘助の郷、富士宮市山本郷まで山本勘助ゆかりの場所を訪ねながら散策をした。
なんと午前11時から午後3時半、上り坂あり下り坂あり、しっかり歩く良い運動、元気君にはもってこいのお勧めコースです。

上の富士山の写真は代信寺から勘助坂に至るお茶畑道中で写したもの、只今工事中の第二東名が見える。のぞかな富士の裾野は今日は快晴無風、散策を一層楽しいものにしてくれる。
■富士瀧戸の代信寺
勘助の父母と思われる木像が安置して在るので有名、北山本門寺の末寺,
由緒在る寺院だ。
身延線入山瀬駅から35分ぐらいかな・・。
■木 像
勘助の父山本貞幸、母大橋安女の物とも叔父貞久と勘助の木像とも定かでないが勘助所縁のものとされている。
■勘助坂
この下方が勘助の生家、この坂は竹馬などに興じ遊んだ坂道とされ、勘助坂と呼んで今ではハイキングに絶好の場所として親しまれている。
代信寺からは高原の茶畑の中を30分は歩くかな・・、しかし天気の良い日は見晴らしがよく爽快だ・・・。
■勘助の母安女の墓
本家吉野家の墓地に静かに眠っている。孤立していた墓石を昭和58年本家18代党首吉野郷雄氏(故人)によって吉野一族の墓地に建立したとある。

勘介の両親の墓
右 勘助の父母の墓 →
参州賀茂の本願寺には
勘助の父母の墓がある。
勘助は参州牛久保に、父母も母の郷、参州に行ったと考えられませんか・・?
■吉野家本家
代官を務めた由緒在る館として第19代当主吉野文郷氏に依って相続されている。屋敷内に「勘助生誕の碑」が建碑されている。
勘助の生家は此処より東、吉野家の墓地の近くに在ったが今は廃家になって見ることは出来ない。
吉野本家が生誕の地と有るが、本当は今は無き生家とされる所ではないだろうか・・・?
勘助の父貞幸はその父貞久と吉野本家とは別の所に同居していたので吉野家本家を継いでいたのは貞幸の兄貞宗で有ることを考えると勘助の誕生は貞幸の父貞久の家ではないだろうか・・?。
■当主吉野文郷氏の案内で屋敷の中を見せて頂いた。
当時から在ると言う池や立派な灯篭を見る事が出来た。
■勘助の生誕の碑
屋敷の建物を撮影したこの位置の後方に勘助生誕の碑がある。
大正13年、昭和天皇即位を記念して静岡県の支援を得て献碑したとある。
高さは2メートル以上有るだろう。裏に由緒が刻まれている。

「勘助生誕の碑」の裏の由緒(碑文)
は「山本勘助生誕地は・・」の頁をご覧ください。


■麻利支天(まりしてん)
戦勝の神様でサンスリット語で「マリーチー」、かげろうと言う意味を持っている。
絶対に切り捨てられないもの、という意味。勘助は参州牛窪の「長谷寺」に之を奉納し大願成就を願った。また絶えず首飾りに備え戦勝の守護としていたとある。4頭の猪の上に鎮座する神々しい守護神である。
この写真は吉野家で手に入れた物、頂戴して掲載した。
■多田森山 山本八幡宮
吉野家初代吉野貞倫が山本村安泰を祈願して建立したとある。
祭神は多田満仲(源満仲)とされております。
普段は見る事は出来ないが貴重な宝物が鎮座していると聞く。