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                         ■ 山本勘助ってどんな人・・?


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「武田家の人々」Hp


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勘助生誕地吉野本家
三つ巴  山本勘助ってどんな人・・・
1493〜1561。武田家臣団の中で一番有名な人物であるにも関わらずその正体は謎に包まれている。『市河文書』という書状に『山本管助』の名が発見されるまでは勘介は架空の人物とさえ言われていた。『甲陽軍鑑』によれば天文12年(1543)年に武田家に仕官したことになっている。数えで既に51歳。三河牛久保の出身とされているがこれにも諸説あって、駿河の富士宮市山本にも生誕の地と言われるところがある。全国を巡り諸国の事情に通じ、兵法・武芸に秀でた軍師、ということで板垣信方の推挙により武田晴信は破格の200貫で足軽大将にしたという。当時今川の食客だった勘介。外交役だった板垣と通じ信虎の駿河追放にも影のブレーンとして関わっていたのかもしれない。身の丈短く、色黒い醜男で左目は失明、右足も不自由で手の指も満足ではなかったというのにそこまで重用したのにはこれから版図を広げようという武田家にとって彼の『築城技術』が必要だったからではないかという説もある。実際小諸・海津など信州には彼の縄張りによる城が多数あり後にその技術は馬場信春へとうけつがれている。永録4年の川中島においてあまりにも有名な勘介の『きつつき戦法』はしかし上杉に裏をかかれた形となって武田軍は重大な危機に陥ってしまう。そんな中信玄の弟・典厩信繁が討死、責任を感じた勘介は敵陣に飛び込み戦ったが全身80箇所余りに傷を受けて討死する。『逝くことは流れの如し』山本勘介晴幸、入道して道鬼。享年69歳。勘介の墓は千曲川の土手沿いにあり、戦死の地にあった『勘介宮』も南長野運動公園内に再建されている。また、生誕地と言われている三河牛久保の長谷寺には勘介の遺髪塚もある。『勘介』の名のついた史跡はとても多い。


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「武田家の人々」より