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      山本勘助は何処で生まれたか・・
■山本勘助は何処で生まれたか・・
武田信玄を語る時、必ずと言って良いほど山本勘助の名が出るのに其の存在が多くの謎に覆い隠され架空の人物として葬られてしまう・・。何故だろう・・。

こんな時、山本勘助は何処で生まれたのだろう・・?、私がこれを論ずるのは最初から山本勘助の存在を肯定するものであり、幾つかの実在した事実に基づくからである。



・「山本勘助生誕の地」の碑

富士宮市山本にある山本勘助生誕の印碑

大正13年昭和天皇即位を記念して
県の補助を受けて建立した



「勘助生誕の碑」碑文 
Click

■富士郡山本の生まれである・・

世間では、特に此の地方では(富士、富士宮)富士宮市小泉の近郊にある「山本」と言う処だと言う。事実先祖吉野家の屋敷には其の証となる「建碑」があり「山本勘助晴幸は富士郡大宮町山本なる吉野家に生まれ源助と名づく。父は吉野貞幸と言い母は大橋と言う・・(中略) 年12を出て牛窪の人(参州牛久保と思われる)、大林勘左衛門の養子となり勘助と改める・・」と事暦の梗概が堅石に刻まれている。
吉野家累代の墓地には勘助母安女の供養碑も見ることが出来る。


 ■参州牛久保の生まれである・・
方や、参州牛久保の生まれである、とも言う。井上靖の「風林火山」などは「参州牛窪の浪人で駿河の今川家の家老、庵原忠胤の元で米塩の面倒をみて貰っていた。・・」とあり、史実を疑うことのない形で通説化した。

豊川市は「武田信玄の名軍師、山本勘助は明和9年(1500年)8月15日、八名郡賀茂村の山本藤七郎の三男として生まれ、幼名を源助と名乗っていた・・」とし、勘助を偲んで建立したと言う五輪の塔、勘助が信仰していたという「麻利支天」を豊川市の指定史跡とし、豊川の「長谷寺」(チョウコクジ)に拝し今なお奉献に励んでいる。
勘助生誕の建碑もあり又近くの本願寺と言うお寺には勘助の父貞幸母安女の墓もある。此の事実が「参州牛久保の生まれ」の有力な根拠に成って居るのではないだろうか・・・。

{参考}
甲陽軍艦成立以後の資料によると、『牛窪密談記』(1697年以降成立)や『三河国二葉松』(1740年成立)、『参河志』(1836年成立)によれば駿河の富士郡に本拠を構える山本氏(勘助の先祖)が三河国八名郡賀茂荘(愛知県豊橋市賀茂町)へ移住し、賀茂荘に山本屋敷を構え、その後、明応9年8月15日(1500年9月8日)に山本光幸の三男として山本勘助晴幸が賀茂の地で誕生したと言う説である。この説でも三河国宝飯郡牛窪(豊川市牛久保町)の牛窪城主牧野氏を頼る。
大正4年(1915年)に宝飯郡牛久保町(現、豊川市牛久保町)に「山本晴幸生誕地」の石碑が建てられた。





・勘助の墓

豊川市「長谷寺」の山本勘助五輪の塔念宗和尚が勘助の死を悼み勘助が入道した時の遺髪を埋めて建立したのがこの五輪の塔だと伝えられている
この寺の過去帳には「天徳院武山道鬼居士」とある

勘助墓所前には「山本勘助の墓」の説明看板がある Click
  ・「山本晴幸生誕地」の碑

参州賀茂村(現豊川市牛窪)
山本屋敷跡には
「山本晴幸生誕地」愛知県
と記した碑がある

1915年建碑






・山本勘助の墓

富士市比奈「医王寺」の山本勘助の墓

山本一族の墓所の中に叔父貞久と並んで眠っている

叔父貞久は家督を貞幸の兄貞宗に譲り勘助の父貞幸と同居していた。従って貞幸の子勘助は貞久の孫にあたり共に祀られることは想像に値する
もしかして代信寺の木像も叔父貞久と勘助の像で有るかとも察しられる
山本一族の墓所の中に叔父貞久と並んで眠っている






■所見・・

・源助(勘助)が生れたのは確かに富士郡大宮町山本の石の宮吉野家(*2)だったと思いますが、参州牛窪としては牛窪に住む山本藤七郎貞幸の一子、山本源助に他ならない訳で、参州牛窪が生誕の地と思うのも先に述べた様な理由で当然の事と察しられます。


・武田24将の中でも特出して脚光を浴び続ける山本勘助が、その史実として余り評価されない理由は死後の奉賛の微弱さにある様な気がします。例えば山本の生誕の建碑もそうですし、富士の比奈にある山本勘助の墓も山本士族の中にひっそり祀られているにすぎない。


・山本勘助については当時武田の重臣、高坂昌信(禅正)(1527〜1578)の著書「甲陽軍艦」の中に数多く書かれていた事だが「軍師」ではなく史記から見る様な「2万石の足軽大将」であるに過ぎなかった、と言う人が居る。然しいろいろ史記を精査する段階で勘助を取り巻く環境や生き方に幾つかの優れた実績が有る事に気が付く。もっともっと評価すべきではないだろうか・・?。

前述の長谷寺の場合などは確かに山本勘助死直後に寺の念宗(ねんしゅう)和尚がその死を悼み、彼の遺髪を埋めて建立したのがこの五輪の塔だと言われており、豊田市は市指定史跡にしたのは井上靖の「風林火山」が発行された昭和42年直後である。

・何故謎が多い・・
今なお、謎を持って生き続ける山本勘助、何故か・・・?、それは勘助の父、山本貞幸の生き方にある様な気がする。
勘助の父貞幸は長子菊一郎(早死した先妻の子)を兄貞宗の養子に拝し同居している隠居の父吉野貞久の許しを得て山本貞幸として参州に赴き大橋安女なる女を娶り再び富士郡山本に戻って来る。先妻の子を含めて3人の男子をもうけるが全て養子に出し自らは再び修行の旅に出てしまう。武旅では多くの功績を上げているが山本累代に拘らない生き方が故郷山本村をして其の足跡を知る事が出来ない大きな要因と見るのは如何だろうか・・・。
その子源助(勘助)然り、12才で参州大林家の養子大林勘助になるが20才で大林家と縁を切り山本勘助と名を改め父貞幸の歩んだ道を訪ね修行の旅に出る。勘助の生涯はここから始まるのである。何処が勘助の館か・・。武田信玄と共に生きる勘助に山本祖先累代が存在しない理由が浮かび上がる。父同様戦場が勘助の生きる道とすれば謎の多いのはこんな事からだろうか・・・?。




・山本勘助両親のその後・・


勘介の両親の墓 
勘助の父貞幸と母安女の墓が三河賀茂の本願寺と言うお寺に有ることから勘助が養子にいった参州牛久保に居を構えたとみるのは如何だろうか・・・?
勘助は父母家族を含め参州牛久保の住民で有ったとすれば参州が勘助の生誕地と言われるのも頷ける。

←参州賀茂村山本屋敷跡のほど近くの医王山本願寺には
 勘助両親山本貞幸安女の墓がある



・さて、偶像の中に翻弄されながら生きる山本勘助ではあるが500年の時を移した富士山の麓、山本に繰り広げられた源吉野の世界と戦国時代の綾に取り込まれた甲斐源氏武田信玄との物語の主人公がこの山本勘助であった事は残された史実を見て紛れも無い事実である事が分かる。
近くに生きる私たちにとって大きな誇りを感じざるを得ない。




■結論から言おう。


山本勘助は富士郡大宮町の山本郷で生まれ12才参州牛久保大林家に養子となる。勘助の武士としての生涯は此処から始まった、つまり勘助が参州の人といわれる所以である。


・其の事実はこうである・・。
山本勘助の父は富士郡大宮町山本の吉野家(*1)、吉野貞久の次男、吉野貞幸であり兄に吉野貞宗がいた。貞久は吉野家を長子貞宗に託し村内石の宮に次男貞幸(後の勘助の父、16才頃と思はれる)を連れて隠居する。兄貞宗に子が無かった事から貞幸一子菊一郎を吉野家貞宗の養子にやり、この時期貞幸妻を亡くした事から父の許しを乞うて山本と名乗り諸国巡遊の旅に出、八名郡賀茂村に住み山本貞幸(一説によれば山本藤七郎貞幸と言う)と称し同地の入道大橋氏の娘「安女」を娶る。其のあと山本に帰り(石の宮の父貞久の家に戻った思われる)源助(後の勘助)は生れる。貞幸4人の子息と二人の女子をもうけたとあるが(1人は夭折)貞幸の男子は長男「菊一郎」(先妻の子)次男「藤七」三男「源助」であると言われる。

・源助の生まれた年譜は・・
源助(勘助)は
1493年、1500年、1506年の生まれ、と諸説があるので真実ははっきりしないが1561年69才で亡くなった、と言う史記が多いとろから1493年が事実のように察しられる。

・参州牛久保大林家に養子に・・
さて、吉野本家3代貞宗に子供が無かった事から貞幸はわが子菊一郎を兄に養し尚、次男は越後の先祖山本に拝する。後の山本五十六海軍大将の先祖であると言う。源助も12才の頃(15才とも言う)、参州牛窪、牧野家の家臣大林勘左衛門貞次(一説では助左衛門とも言う)の養子になり勘左衛門の勘を擁して大林勘助と名乗る。父貞幸と母安女との縁を取持ったとされる大林家の養子と成ったのも頷ける話だ。


・大林勘助から山本勘助に・・
さて、大林勘助が山本勘助に成るのは、武者修行に出掛けて帰ってみたら大林家に長子が生れていたので大林家と縁を切るのを余儀なくされ山本性に戻るのである。

武者修行の時期について諸説があるが、長谷寺の看板によると26才から35才とあるのでそれ以後大林家と縁を切って山本勘助となった様であるが、駿府の史実などからは20才に大林家と縁を切ったとあり定かでない。


・勘助の生誕地が駿州山本・参州牛窪

 と言われるのは何故だろう・・?


今のところ此の二つにが勘助の生誕の地として種々史跡を伴いながらも謎とされているのは何故だろうか・・?。二つの史実を比較すると地名、苗字、時期などの食い違いは歴史考証には付きものと思いながらも実は一本の線で繋がって居て勘助が生れた処が何となく分かってくる。

参州牛窪側の史実をみると、ある時駿河の郷山本の豪農山本貞幸なる者参州牛窪に移り住み山本壮をつくり其処で勘助は生まれた、とあり其の地に「山本晴幸生誕の地・愛知県」と言う建碑が存在する。尚、医王山本願寺には勘助の父母の墓、近くの長谷寺には勘助の墓も有り豊川市の指定史跡とされているなど勘助生誕は参州牛窪である事に疑う余地が無い。
併し歴史の真実は果たして如何なものだろうか・・?。何故そうなったのだろうか・・・

勘助12歳で大林家の養子として参州牛窪に拝した時勘助の父貞幸、母安女も共に参州に参じたと言われている史実から勘助は参州の生れであると言う参州の告示は有り得ない、と解するほうが正しい気がする。
私の結論、如何なものでしょうか・・?


{参考}
生誕地を巡る論争
山本勘助に詳しい小和田哲男・静岡大教育学部教授(日本史)によると、残存する文献の質から見て富士宮の信ぴょう性が高いが、賀茂や豊川などの説があるのも確か。生誕地については、研究者の間に富士宮や賀茂のほか、同県豊川市など諸説がある。NHK大河ドラマ風林火山で、富士宮市を生誕地としたため、勘助生誕地を名乗る愛知県豊橋市賀茂小学校区の住民が反発して、NHK豊橋支局に押し掛けたという。



・今回は山本勘助誕生にスポットをあてた私の私見に成りましたが如何だったでしょうか・・。



■「勘助の郷 散策・・」のサイトもみて下さい。
山本勘助の実家、吉野家の事、母安女の墓、初代吉野貞倫が建立した山本八幡神社、父貞幸と母安目の木像が安置してある代信寺、勘助が子供の時に遊んだといわれる勘助坂などは山本勘助実在の証として偽りのない事実だ。これ等については「勘助の郷 散策・・」の頁でご紹介いたします。お楽しみ下さい。


(*1)吉野家本家
今では十九代当主吉野文郷氏(昭和18年生れ)が引き継いでいる。この館は300年程以前に少し山側に有った物を移したとあるが随所に侍屋敷の歴史を感じながらの佇まいから歴史の真実を意識する。当時代官屋敷だった風情は約130年ほど前(第14代吉野郷三郎源有信(行年53歳)の時代)もらい火によって焼失し吉野家に残る写絵で見る事が出来る。当時の館は今の「勘助生誕の碑」のあたりにあって、屋敷内に当時から在ったという池は代官屋敷からは富士山を背景とする庭にみたてられる。従って今ある長屋風の建物は焼失後立てられたとある。
当時の屋敷跡辺りに勘助生誕の健碑がありその歴史を故実に伝えている。
さて、大和(奈良)の吉野郷吉野冠者源重季の八代の孫吉野浮雲入道源貞倫(さだとも)は八幡の御心霊を守護し、性を一時「山本」と称して駿河の国富士郡大宮町の最南端の風光明媚な地に移り住み村の名を「山本」とし自らの性を「吉野」と改め、近くの多田の森(とうとうの森とも言う)に「多田森山八幡宮」を建立し山本村の安泰をはかったとある。

吉野家の菩提寺は今は日蓮宗西山本門寺だが、戦国時代の吉野家の菩提寺曹洞宗先照寺(富士宮市中里)(著者の菩提寺でもあります)には勘助が信仰した天神様の木像があり、瀧戸の西山本門寺の末寺代信寺には勘助の両親(諸説あり)の木像が安置されている。これは先照寺末寺宗持院という禅寺に奉納されていたがこの寺が明治になって廃寺になったので代信寺に預かってもらったとある。また、浄土宗医王寺(富士市比奈)には勘助とその叔父貞久の墓がある。このように幾つかの吉野家と山本勘助との関わりを実証し国志の編者達の心を動かしてしまう。


吉野貞倫が初代、貞久二代、貞宗三代、四代は前に述べた様に貞宗に子が無かったので弟貞幸の長子を養する(名を菊一郎から貞次とあらたむ。後に叔父の名、長久を名乗ったとある)。従って勘助の父貞幸は吉野貞久(父)と同居していた家から山本を名乗った分家と解した方が自然だ。
ここまで見る限り山本貞幸一家は3人の子を全て養子にやり、山本家の存続に執着の無いことに気が付く。文武諸芸に秀で西国の勇士とした史実が山本貞幸の人生を物語っている。

(*2)勘助の生家は今では廃家となって見ることは出来ないが本家吉野家に程近い村内石の宮に在ったらしい。母安女の墓はその近く、本家吉野家の墓地の中にある。長年孤立していた安女の墓碑を、昭和58年ごろ吉野家本家十八代吉野郷雄(故人)が吉野一族の墓地に建立したとある。この墓の近くには勘助が竹馬に乗ったりかくれんぼ(?)などした「勘助坂」がある。多分この近くに住居で在ったのかも知れない。


勘助らしい一枚””
ご覧あれ・・


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