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■富士郡山本の生まれである・・ 豊川市は「武田信玄の名軍師、山本勘助は明和9年(1500年)8月15日、八名郡賀茂村の山本藤七郎の三男として生まれ、幼名を源助と名乗っていた・・」とし、勘助を偲んで建立したと言う五輪の塔、勘助が信仰していたという「麻利支天」を豊川市の指定史跡とし、豊川の「長谷寺」(チョウコクジ)に拝し今なお奉献に励んでいる。
■所見・・ ・源助(勘助)が生れたのは確かに富士郡大宮町山本の石の宮吉野家(*2)だったと思いますが、参州牛窪としては牛窪に住む山本藤七郎貞幸の一子、山本源助に他ならない訳で、参州牛窪が生誕の地と思うのも先に述べた様な理由で当然の事と察しられます。 ・武田24将の中でも特出して脚光を浴び続ける山本勘助が、その史実として余り評価されない理由は死後の奉賛の微弱さにある様な気がします。例えば山本の生誕の建碑もそうですし、富士の比奈にある山本勘助の墓も山本士族の中にひっそり祀られているにすぎない。 ・山本勘助については当時武田の重臣、高坂昌信(禅正)(1527〜1578)の著書「甲陽軍艦」の中に数多く書かれていた事だが「軍師」ではなく史記から見る様な「2万石の足軽大将」であるに過ぎなかった、と言う人が居る。然しいろいろ史記を精査する段階で勘助を取り巻く環境や生き方に幾つかの優れた実績が有る事に気が付く。もっともっと評価すべきではないだろうか・・?。 ・前述の長谷寺の場合などは確かに山本勘助死直後に寺の念宗(ねんしゅう)和尚がその死を悼み、彼の遺髪を埋めて建立したのがこの五輪の塔だと言われており、豊田市は市指定史跡にしたのは井上靖の「風林火山」が発行された昭和42年直後である。 ・何故謎が多い・・ 今なお、謎を持って生き続ける山本勘助、何故か・・・?、それは勘助の父、山本貞幸の生き方にある様な気がする。 勘助の父貞幸は長子菊一郎(早死した先妻の子)を兄貞宗の養子に拝し同居している隠居の父吉野貞久の許しを得て山本貞幸として参州に赴き大橋安女なる女を娶り再び富士郡山本に戻って来る。先妻の子を含めて3人の男子をもうけるが全て養子に出し自らは再び修行の旅に出てしまう。武旅では多くの功績を上げているが山本累代に拘らない生き方が故郷山本村をして其の足跡を知る事が出来ない大きな要因と見るのは如何だろうか・・・。 その子源助(勘助)然り、12才で参州大林家の養子大林勘助になるが20才で大林家と縁を切り山本勘助と名を改め父貞幸の歩んだ道を訪ね修行の旅に出る。勘助の生涯はここから始まるのである。何処が勘助の館か・・。武田信玄と共に生きる勘助に山本祖先累代が存在しない理由が浮かび上がる。父同様戦場が勘助の生きる道とすれば謎の多いのはこんな事からだろうか・・・?。 ・山本勘助両親のその後・・ 勘助の父貞幸と母安女の墓が三河賀茂の本願寺と言うお寺に有ることから勘助が養子にいった参州牛久保に居を構えたとみるのは如何だろうか・・・? 勘助は父母家族を含め参州牛久保の住民で有ったとすれば参州が勘助の生誕地と言われるのも頷ける。 ←参州賀茂村山本屋敷跡のほど近くの医王山本願寺には 勘助両親山本貞幸安女の墓がある ・さて、偶像の中に翻弄されながら生きる山本勘助ではあるが500年の時を移した富士山の麓、山本に繰り広げられた源吉野の世界と戦国時代の綾に取り込まれた甲斐源氏武田信玄との物語の主人公がこの山本勘助であった事は残された史実を見て紛れも無い事実である事が分かる。 近くに生きる私たちにとって大きな誇りを感じざるを得ない。
さて、吉野本家3代貞宗に子供が無かった事から貞幸はわが子菊一郎を兄に養し尚、次男は越後の先祖山本に拝する。後の山本五十六海軍大将の先祖であると言う。源助も12才の頃(15才とも言う)、参州牛窪、牧野家の家臣大林勘左衛門貞次(一説では助左衛門とも言う)の養子になり勘左衛門の勘を擁して大林勘助と名乗る。父貞幸と母安女との縁を取持ったとされる大林家の養子と成ったのも頷ける話だ。 ・大林勘助から山本勘助に・・ さて、大林勘助が山本勘助に成るのは、武者修行に出掛けて帰ってみたら大林家に長子が生れていたので大林家と縁を切るのを余儀なくされ山本性に戻るのである。 武者修行の時期について諸説があるが、長谷寺の看板によると26才から35才とあるのでそれ以後大林家と縁を切って山本勘助となった様であるが、駿府の史実などからは20才に大林家と縁を切ったとあり定かでない。 ・勘助の生誕地が駿州山本・参州牛窪 と言われるのは何故だろう・・? 今のところ此の二つにが勘助の生誕の地として種々史跡を伴いながらも謎とされているのは何故だろうか・・?。二つの史実を比較すると地名、苗字、時期などの食い違いは歴史考証には付きものと思いながらも実は一本の線で繋がって居て勘助が生れた処が何となく分かってくる。 参州牛窪側の史実をみると、ある時駿河の郷山本の豪農山本貞幸なる者参州牛窪に移り住み山本壮をつくり其処で勘助は生まれた、とあり其の地に「山本晴幸生誕の地・愛知県」と言う建碑が存在する。尚、医王山本願寺には勘助の父母の墓、近くの長谷寺には勘助の墓も有り豊川市の指定史跡とされているなど勘助生誕は参州牛窪である事に疑う余地が無い。 併し歴史の真実は果たして如何なものだろうか・・?。何故そうなったのだろうか・・・ 勘助12歳で大林家の養子として参州牛窪に拝した時勘助の父貞幸、母安女も共に参州に参じたと言われている史実から勘助は参州の生れであると言う参州の告示は有り得ない、と解するほうが正しい気がする。 私の結論、如何なものでしょうか・・?
・今回は山本勘助誕生にスポットをあてた私の私見に成りましたが如何だったでしょうか・・。 ■「勘助の郷 散策・・」のサイトもみて下さい。 山本勘助の実家、吉野家の事、母安女の墓、初代吉野貞倫が建立した山本八幡神社、父貞幸と母安目の木像が安置してある代信寺、勘助が子供の時に遊んだといわれる勘助坂などは山本勘助実在の証として偽りのない事実だ。これ等については「勘助の郷 散策・・」の頁でご紹介いたします。お楽しみ下さい。
吉野家の菩提寺は今は日蓮宗西山本門寺だが、戦国時代の吉野家の菩提寺曹洞宗先照寺(富士宮市中里)(著者の菩提寺でもあります)には勘助が信仰した天神様の木像があり、瀧戸の西山本門寺の末寺代信寺には勘助の両親(諸説あり)の木像が安置されている。これは先照寺末寺宗持院という禅寺に奉納されていたがこの寺が明治になって廃寺になったので代信寺に預かってもらったとある。また、浄土宗医王寺(富士市比奈)には勘助とその叔父貞久の墓がある。このように幾つかの吉野家と山本勘助との関わりを実証し国志の編者達の心を動かしてしまう。
勘助らしい一枚”” |